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信じるものは救われる?

生まれたとき、人は誰でも、
信じなければ生きていけなかった。

母が口に運ぶ食べ物を信じて受け入れ、

母の袖を信じて遊び、

母の懐を信じて泣いた。

人を信じて受け入れなければ成長できなかった。

それはもう、

1ミリも疑う余地のない、
「信じる」とわざわざ言葉にする必要のない、
100%の信であった。

母も子どもの成長を信じていた。

そうやって、

母を信じ、母に信じられ、そうして育まれた「信」が、
いつしか自分自身に対する「信」となる。

自分自身の拠り所となる。

はずだった。

それがいつしか人は、

信じることを拒否するようになってしまった。

「信じないように」と教えるようになってしまった。

信じるものがバカを見て、
信じない者が賢いと思うようになってしまった。

そして、

子が親を、親が子を信じられない。

夫が妻を、妻を夫が信じられない。

部下が上司を、上司が部下を信じられない。

生徒が先生を
、先生が生徒を信じられない。

自分が自分を信じられない。

と、すべての関係が、

信じ、信じられる関係から、

信じない、信じられない関係に
とって変わってしまった。

人間は人の間と書く。

文字通り、人は人の間でしか生きて行く
ことはできない。

それなのに人を信じることよりも、
疑ってかかることのほうに重きをおいて
生きている。

なんと皮肉なことだろう。

疑い深い人の口癖はこうだ。

「ウソ!信じられない!」

神頼みするときでさえこうだ。

「信じるものが救われる? ハア?」

「救ってくれたら信じてやるよ!」

残念ながら、

疑い深い人の周りには、
疑い深い人が集まってくる。

そして、いかに世の中が信じられないか
という話で盛り上がる。

まるで自分達が盲目的でない賢者で
あるかのように振る舞いながら。

しかし、実際には彼らは愚か者だ。

なぜなら、疑い深い人は、

世の中が信じられないのではなく、
自分が信じられないから。

自分という人間を根底の部分で
信じられないから、人も信じられないのだ。

自分を信じられないから、人も信じられない
人を信じないから、人からも信じられない。

恋愛も、家族も、学校も、ビジネスも、
すべては人間関係だ。

人間関係の出発点が、「疑い」から
始まって上手く行くはずがない。

だから、上手くいっていないときは
思い出して欲しい。

「信じるものが救われる」ことを。

何を信じるものが救われるのか?

「自分を」だ。

「信じる」力はとてつもない。

不可能を可能にし、
凡事を奇跡に変える。

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