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新鮮で、刺激に満ちた日常

昔、祖母がまだ生きていた頃、

夕方、祖母に連れられて本堂の
戸締まりに行くと、

祖母が、

「ああ、また人が亡くなりゃあたねえ」
とボソッと言う。

しばらくすると、

「父が亡くなったから葬式をお願いしたい」
という電話がかかってくる。

そんなことがよくあった。

霊がいるとか、いないとかいう議論は、
古今東西に渡って繰り返されてきた。

本当に霊がいるかどうかの議論は、
興味深くて、みんな熱中するけど、

議論しても時間の無駄だ。

死んでみなければ誰も分からないから。

ただ、

どうもこの世には見えない世界と、
目に見える世界があるようだ。

数字や映像などのデータをもとに
目で見て確認できることと、

目には見えないけれど、

私たちの能力や、私たちが採用している
判断基準や、考え方では理解できない
深淵な世界が確かに存在するということなのだ。

例えば犬は、人間の嗅覚でもってしても
認識できないニオイを嗅ぎ分けることが出来る。

私たちが臭えないからといって、
そのニオイがないとは限らない。

だから私は、

自分に見えないからといって、

自分に聞こえないからといって、

自分に感じられないからといって、

自分に分からないからといって、

それが存在しないとは言わない。

存在しないことを証明できるものも
何も持っていないから。

見えないものを信じるなんて、
「あやしい」「いかがわしい」という人もあるだろう。

確かに、そこを利用して、まやかしを
でっち上げて金儲けをしようとする輩もいる。

ただ、私たち現代人は、

自然界の動物と比較しても、

「目」に飛び込んでくる情報ばかりに頼っていて、
その他の持って生まれた感覚器官が十分に
開発されていない、

感覚に鈍感な生き物だということは、
間違いない。

脳は
情報の実に80%以上を視覚に
頼っているとも言われている。

だから視覚に訴えて人々をコントロールしようとする
テレビコマーシャルが、何千、何億というお金を
投じて流されている。

しかし、感覚器官は、目以外にもたくさんある。

体中に空いた穴がそれだ。

私たちの体は、

耳も、鼻も、舌も、性器も、
肌に無数に空いた穴すべてを
総動員して外界との交信を行っている。

そこに第六感、第七感、ひょっとしたら
もっとあるのかもしれない感覚機能が加わって、

その総合力として得られる感覚が、
「直感」だ。

残念ながらその直感が、
研ぎすまされている人は、
あまりいない。

私も含めて。

理由の1つは、視覚ばかりに頼って
他の感覚器官が鈍化しているから。

私たちの感覚器官が感じられる力、
感性は、自然界に生きる動物と比較して、
あきらかに鈍化している。

感性を取り戻す第一歩は、
目を閉じて視覚情報をストップすることだ。

そして、あれこれ浮かんで来る
理屈っぽい思考に振り回されないことだ。

坐禅以外に、その体験を与えてくれた人がいる。

故、宮下富美夫さんだ。

大学院の時、音楽と宗教というテーマで、
音楽の歴史や、宗教の中で扱われる「音」を
研究していた私は、
何度か宮下さんの元へ足を運んだ。

宮下さんは
長野に琵琶スタジオという
スタジオを持っていて、そこで創作活動を
していらっしゃった。

はじめて宮下さんを訪れたとき、

宮下さんは、忙しい中何時間も
私の話を聞いてくれ、その後
私を森の中で連れていってくれた。

そして、
あるスポットに来ると、
「目を閉じて音を聞いてごらん」と言った。

その辺りは全くの無音。

虫の声も、鳥の鳴き声も、もちろん
暴走族が奏でるバイクの爆音も聞こえない。

それなのに、目を閉じると、

確かに「音」が聞こえてくるのだ。

上手く言葉に表せないのだが、

低く、ドーンとした、
何かがゆっくり波打つような音だった。

宮下さんは言った。

「聞こえた?それが地球の鼓動だよ」と。

一瞬時間がとまってしまったかのような、
自分が固まってしまったかのような不思議な感覚を覚えた。

その後、地球の鼓動と重なって聞こえて来る、
もう1つの鼓動を聞いた。

私の心臓の音だった。

軽くて、小さくて、でも一所懸命動いている
音だった。

地球の鼓動と自分の心臓の音。

「命の音」のハーモニーだった。

私のちっぽけな命が、とてつもなく深くて、
大きな命に包まれて存在していることを
否応無しに認めざるを得なくなった。

それからというもの、山を見ると、
川を見ると、花を見ると、岩を見ると、

動物を見ると、人を見ると、
その命の鼓動が聞こえてくるようになった。

実際には聞こえていないのかもしれない。

でも、そこに息づく命の鼓動を
確かに感じられるようになった。

「そんなの錯覚だ」という人もいるだろう。

それでもいい。

生きとし生けるものに、
命が息づく音が感じられる錯覚を持って、
悪いことは1つもない。

視覚以外にも、無数の感覚がある。

耳を、舌を、肌を、目を外の強烈から遠ざけ、
あらためてそれらの感覚を、

研ぎすましていくプロセスの中で、

今まで当たり前で退屈に見えていた周囲の環境や
出来事が、とても新鮮で、発見に満ちている
ことを知ることができる。

常に新しく刺激を外に求めて
動きまわることをやめ、

自分の感覚を研ぎすましていくことによって、
感じられるようになる、新鮮で刺激に満ちた
ごく普通の日常。

一見質素で、退屈に見えるけれど、
豊かで奥深く、飽きない世界は確かにある。

今、お寺での生活が楽しい。

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