コラム

欲望と希望の違い

欲望と希望を取り違えて、希望を持つことすら、遠慮してしまっている人がいます。


「あれも欲しい、これも欲しい、もっともっと欲しい」というザブルーハーツの『夢』という曲がありますが、あれは欲望です。

おいしく食べたい、気持ちよく寝たい、苦しいのは嫌、頑張っただけの報酬は欲しい、儲かる商品を作りたい、これぐらいのことは、希望です。

鳥が黄砂まみれの空ではなく、澄んだ空を飛びたいと思うのは欲望ではなく、自然な希望です。
魚がゴミだらけ、ヘドロだらけの水ではなく、澄んだ水の中を泳ぎたいと思うのは欲望ではなく、自然な希望です。

同じように、美味しいものを食べたい、気持ちよく寝たい、セックスをしたいなどの基本的な欲求、生きるための生理的な欲求から派生する自然な欲求は、遠慮する事なく、堂々と抱いてもいい希望です。

ところが時々、その当たり前の希望にすら罪悪感を持って遠慮してしまう人がいます。

ひょっとしたら、別段信仰しているわけではないにせよ、欲望をコントロールしなければならないという宗教からの強迫観念を無意識のうちに受け取っているのかもしれません。

だからここで、なぜ人間が宗教を持ったのかについて話しておきます。

人間には、性欲、食欲、睡眠欲など、生きていく上で欠かせない基本的な欲求があります。

その基本的欲求が、もっと美味しいものが食べたい、もっと美しい音楽を聴きたい、もっと複数の異性とセックスをして快楽を得たいというように、派生して生まれたのが文化です。

その欲求がさらに自分だけ美味しい物を独占したい、自分だけ富を独占したい、他の人、他の部族を攻撃してでも自分の領土を広げたいとエスカレートして、殺し合いにまで発展したのが戦争です。

かくして人間は、この地球上で自分の欲望のために同種同士で殺し合いをする動物になってしまいました。

しかしそれではいけないと、「愛」とか「慈悲」とかいう自分以外の命を慈しむ言葉を脳に刷り込むことによって、人間同士の争いを避けて幸せに生きることができるようにと、人間自身が生み出した「殺し合いを避けて幸福を追求するシステム」が宗教の起源です。

ところが、その宗教自体が、基本的な欲求に基づく自然な希望にすら罪悪感を抱かせてしまう足かせとなっていることがあります。

希望を抱くことにすら、どこかで罪の意識を感じてしまっている人がいるのです。

だからもし、あなたが希望を持つことにわずかでも罪悪感を覚えるなら、自分が幸せになりたいと思う気持ちにブレーキがかかっている感覚があるなら、まず、その罪悪感を開放してあげて欲しいのです。

「私にはこういう希望があって、実はこんなことを考えている」

と。

それは変なことでも、恥ずかしいことでも、エゴでも、わがままでも、

身勝手でもなく、命にとって自然な、本来の希望なんだということを、認めてあげて欲しいのです。

どうか遠慮することなく、まっすぐにあなたを生きてください。

どうか恥ずかしがることなく、無邪気にあなたを生きてください。

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